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 本局次元港は、トーラス円環型ステーションを幾重にも重ね合わせた超大規模次元空間構造物だ。各次元空間の往来を支える流通拠点、空間災害次元震早期警戒システム、余剰次元における技術的課題を克服するための橋頭堡。文字どおり人類文明の結晶として浮かぶ本局次元港施設は、その実、内奥に所在する軍事施設に併設されたものに過ぎず、ベルとメアリーの目的地は奥の方にあった。
 次元港のコンコースから専用のゲートをくぐり、受付に身分証を提示する。ベルにだけ渡された一時入館証を身分証に挟み込んで、セキュリティエリアの係員にも見えるようにしてやりながら、通路の奥にある大きなエレベーターに乗った。脇からメアリーが押した操作盤に『13』の字を確かめたベルは、そのまま時空管理局と呼ばれる組織の中枢へ下りていった。
 人類生存可能領域コンフォート・ゾーンすべての平和と安寧を守る、法と平和の主義者。近代ベルカ戦争絶滅戦争をかろうじて生き延びた人類が、多くの摩擦と妥協を重ねて築き上げた生存の砦──。士官学校の教官たちは、そのような言葉で時空管理局と、その仕事の意義を説明していた。教場の中であの眠たい講義を聞き通せた同期が、果たして何人いたものか。体力向上訓練PTだの上級生からのシゴキだの校友会だの、朝から晩まで休み無しの学生には、子守唄以上の意味をもたなかったように思う。試験と訓練と理不尽でできた灰色の士官学校生活から六年、それなりにうまくやっている今でも、政治家の謳い文句は眠たく聞こえる。中枢から離れた現場仕事を好むようになった理由のひとつだったが、そんな自分が今、まさにその中枢に立ち入っていた。
「本局はご無沙汰?」
 憮然とした内心を見透かすように、メアリーがこちらを見やる。からかうでもなければ窘めるでもない、そのへんの石ころを見るにももう少し情はあろうという視線だったが、それが彼女の素だということをベルは知悉していた。「用事がないからな」と口を尖らせて、冷めかけたカフェオレをすする。
「トランジットで使うことはあるけど、わざわざ局内まで入らねえよ」
「上の顔色を伺ってどうこうするもんじゃないの、部隊勤務の三佐って」
 うちにも結構来るけど、と言わんばかりの声だった。「そんなヒマに見えるか?」と受け流す言葉を返す。
「陸戦屋は現場駆けずり回ってナンボなんだよ。悠長にお役所の顔色伺う余裕なんかない」
 局外留学組同士、そのあたりの機微は互いに知り尽くしている。デスクワークほどベルの性に合わないものもなく、在学中は何度もメアリーにどやされたものだった。どだい場数が違うのだ。弁護士から一転して本局中枢の事務官に収まった彼女と、士官学校卒業から部隊勤務にべったりのベル。ちまちました書類さばきはあっても、本局のそれとは文字どおり次元がちがう。ベルの仕事が書類を書くことなら、本局の仕事は書類を書かせることで、特にメアリーは将官クラスに書類を書かせなければならない。まさか怒鳴り散らすわけにもいかないから、将官、部下の佐官、さらに部下の尉官や下士官と手繰りながら、要と見込んだ相手に根回しを施していくのがセットだ。単なるスケジュール調整ならメールを送りつければいいが、新しい仕事を押しつけるともなれば……。準備のための準備という冗談が冗談では済まないのが、本局という伏魔殿の実態だった。
 そういう職場に組み込まれても、数年もすれば慣れる。表情のデフォルトが愛想笑いになり、行き交う同僚たちを一瞥で値踏みするスキルも所作に染み付いてしまうものだが、今の彼女にそのような色はない。「ふぅん」というひと言で話題を切り上げたメアリーは、そのまま階数の表示板に視線を戻してしまう。人好きのする笑顔だとか、顔色を窺う隠微な視線だとか、そういった仮面はデスクに置いてきたらしい。
 殊更にそっけない態度を取ってみせても、不快にも不安にも感じず付き合ってくれる相手。仕事抜きに話せる、仕事抜きの顔を見せられる相手。甘えられる相手とひっくるめれば朴念仁にも優越感が宿るものだが、このときばかりは違和感ばかりが先に立っていた。
 おどおどしているというのか、避けられているというのか。こびりついた緊張が、如才ない彼女を軋ませているというか。字義どおり寝食を共に忘れた仲を一年以上やっていたからわかる類の機微にはちがいなく、だからこそベルには手が出しにくい問題でもあった。